- ハイジャックのようです -
 ほどなくして離陸した飛行機の中で、二人は静かな一時を過ごしていた。
「メグには今度お礼を言っておかないといけないわね」
 チューチューと紙コップのコーヒーを吸いながら、バレンタインは窓の外を眺める。
 パリ全市街のネオン――――エッフェル塔や凱旋門。そしてシャンゼリゼ通りの地を這うような光の道。
 それらを全て満喫出来る窓側の席の特権風景を、彼女はただぼうっと眺めていた。
 そんなバレンタインの横顔を見ながら、カカオはちびちびと目の前のオレンジジュースを飲んでゆく。
「いくら仕事といえ、それはそうですよね。メールでも送っときますか」
 右手の携帯のボタンをカチカチを動かしながら、彼は尋ねる。
「それはダメよ。ちゃんとこっちに戻ってきてから直接言わなきゃいけないわ」
 窓の外から視線は外さず、バレンタインは淡々と答える。
「顔を見せて、表情を見せながらお礼はするものよ。特に今の時代なんて……」
 言い淀むと、静かな機内にチューチューと滑稽な音が響く。
「やだなぁバレンタインさん。おばさんみたいなこと言っちゃって」
 携帯の画面を見ながら、カカオは乾いた笑いでバレンタインの揚げ足を取ったがそれは流石にまずかった。
「アッー!」
 途端、彼の左足にとてつもない圧力が襲いかかったのだった。
「だらしない声を出さないで頂戴。いっしょにいる私が恥ずかしいわ」
 フン、と鼻を鳴らしてバレンタインはカカオの足を踏むのを止めてから、そのまま軽く蹴る。
 てへへ、と愛想笑いを浮かべるカカオ。
 その顔をジト目で見ながら、バレンタインは一言つぶやく。
「メグの頭をなでられなくて、とっても残念だわ」
 大きなため息が、日本への期待と不安を物語っている。
 色に例えるなら、青い絵の具に少し白をたらしたようなそんな感じだろう。
 しかし、カカオはそんな淡い感情に気付くはずも無く。
「僕の頭なら、いくらなでてもかまいませんよ。むしろ歓迎です」
 と自らの頭を突き出してげんこつをもらって帰ってきたのだった。
 
 
 ◯
 
 
『興四郎さんからメールが届きました』

 トムソンがポップアップでメールの着信を知らせてくれたのは、丁度丑三つ時の頃だった。
 隣のカカオはメイちゃーんと言いながら大きな寝息を立てて寝ている。
 そしてバレンタインはそんな彼の顔にマジックペンでヒゲを書いてみたい気持ちを何とか抑えて早五分。 つまりここが頑張りどころです、な頃でもあった。
「あら、興四郎さんからメールだわ」
 フライト直前にアドレスは教えていたのでなんの不思議さも感じられないのだが、メールというのは読んでみるまでに少しばかり楽しさを感じるものである。何が書いてあるのか題名から想像してみるのも一興。バレンタインはそう考えていたのだが――――
 
『緊急事態』

 という題名から想像できることなどあまり多くは無いわけで……というか想像しているヒマも無く彼女は隣のカカオの頬を豪快に叩いて起こして自分の体も起こしたのである。ちなみに全席リクライニングシート。
「大変よカカオ! 興四郎さんが狙われているかもしれないわ!」
 まくし立てる彼女に対するカカオの反応は可愛さ余って憎さ百倍一千倍。
「……ふぁ?」
「みこんうぉーず!」
 と、勢い余ってさらにワンパンチ。カカオの顔がいい感じにぐにゃりと曲がって元に戻る。
 とりあえず目が覚めたらしい彼に、もう一度バレンタインは説明する。
「このメールがたった今届いたの。マズいわ。もしかしたらビター伯爵の手先に……」
「はぁ。まさかこんな飛行機にいるんですかねぇ」
 目が覚めてもカカオはカカオだった。
「何でも無いのに緊急事態ってパラドックスもいいとこよ。興四郎さんがあなたより百倍マトモなのは間違い様の無い事実なんだし」
「なんだか僕が間違って生まれてきた子みたいな扱いするのやめてくれません? 流石にこの空からダイブしようとか思いませんけど」
 と、ろれつがあまり回っていない口調で言ってから
「とりあえず返信してみることをおススメします」
 カカオはトムソンのキーボードを軽く叩いた。
 画面に短い一文が浮かぶ。

『とりあえず落ち着いて。今どこにいるか分かりますか?』

「完璧ですね」
 ニッと笑って白い歯を見せつけてくれるカカオに、バレンタインは目潰しをお見舞いした。
「オウチ!」
「同じ飛行機のってるに現在地を聞く馬鹿はあなただけよカカオ!」
 目を抑えて
「目が目が」
 と唸るカカオの手を彼女はトムソンから払いのけようとする。
 が、運悪くカカオの手がメールを送信するキーに触れてしまった。

『送信完了しました』

「あっ!」
 画面に浮かぶ文字に対して、バレンタインは叫び、カカオは目を抑えていて見えないので彼女の声から察して立ち上がった。
「敵襲ですね? わかります」
 中央通路にふらふらと歩き出て、カカオは目を抑えていない右手を振り回す。
 そんな困った客にも、スチュワーデスは丁寧に応じるのだ。
「お客様、どうかなされましたか?」
「敵襲ですよ? 早く着陸させないと」
 そんな漫才にもならないやり取りが遠くから聞こえてきたが、バレンタインはとにかくメールを開くことにした。
 内容を見ないで送信してしまった事実が彼女を苦しめるが、そんなこを気にしていてもしょうがないのだ。
「こうしている間にも、興四郎さんもしかしたら……」
 不安事項を頭にかけめぐらせながら、バレンタインはメールを読み始めた。
 のだが、そこには予想外の文字列が。

『の際にはすぐに連絡してもらって構わないよ』

 その後、バレンタインは飛行機が日本に着くまで興四郎にスパムメールを送り続けた。
 

 

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