- 01 -
「ふんふん。ふんふんふんふん」
 薄暗い店内に、キーボードを小気味良く叩く音が響く。
 心地よいサウンドを奏でる僕の仕事のはかどり具合は中々好調だ。
 やっぱりBGMって大切だよなぁ、なんて思っていたらもう3時を過ぎていた。
「うーん。とりま、最低ラインは踏み倒さずに済んだぞー」
 今現在の仕事場、小さな765番席で僕は伸ばせるだけ腕を伸ばして硬くなった体をほぐす。
 とっても気持ちいい。
 ゴムのように伸びる体はもちろんのこと、手の先に当たる柔らかい感触が……
「え?」
「え?」
 感触の元を確かめようと、首を後ろにゆっくりと回して捉えた映像で僕の眼球はエラーを起こし始めた。
「あ……すいません」
 女性の胸のあたりに見事に沈み込んだ僕の人差し指は、もう動かない。
 動けない。
 しかも、この人どこかで見たような――――
「変態ッ!!」
「ふげっ!!」
 小さな席の中で、僕は体の様々な部位を壁に激しくぶつけながら回転した。

 
 ◯
 
 
「すみませんでした……」
 価格表示が外された自動販売機の前で、ホットコーヒーの入った紙コップに口をつけて静かにすする女性に僕は頭を下げえていた。
 いわゆる謝罪である。
 この行為のクオリティが犯罪となるか犯罪でなくなるかの運命を左右することがあるのだから、僕はもうそれこそ真剣に頭を下げているのである。
 それでもボクはやってない、なんて言った日には、夕日を刑務所で拝むことがあるかもしれない。
「そんなに真剣に謝られても困ります。事故だったんですから」
 コーヒーをすする音が所々で混じる。
「そ、そうですよね。こういう狭いところでの肉体衝突事故なんてよくある」
「やっぱりワザとだったんですね。失望しました」
 空になった紙コップをカコンと額に投げ当てられ、僕はハッとなって彼女に寄りすがった。
「言葉のあやという言葉をご存知で!?」
「私あやとり出来ない女の子なんです」
「現代っ子なんですね!?」
 周りの客の視線が、直接ではないのに痛々しく感じられたのは気のせいではなかったはずだ。 
 
 
 ◯
 
 
「へぇ……災難だったんですね」
 早くも三杯目のコーヒーをすする彼女の横に、僕は縮こまって座っていた。
 漫画が棚に大量に陳列されている部屋の一角にある、小さくて白い長方形の柔らかい塊に、である。
「えぇ。一体誰がやったんですかねぇ」
 僕のつたない会話能力を駆使して、ようやくこうして和解の席に持ち込めたので、ついでにこれまでのいきさつを彼女に話てみたという所だ。
 
 話てどうなる、ってわけでもないのだけれど。
 
「最近の日本って、意味不明な事件がホント多いですからねぇ」
 紙コップの中を見つめながら、彼女はぽつんとつぶやく。
「あぁ、数年前の秋葉原のとか、ですか」
「えぇ。怖かったです。私あの時あそこの近くにいたんで……」
「えっ」
 僕は思わず言いよどんでしまった。
「だ、大丈夫だったんですか」
「大丈夫だからここにいるんじゃないんですか」
 顔を僕の方に向けて、ニッコリと笑う。
 けれど、その表情は作り物に見えた。
「でも、あれから人間ギライになっちゃったなぁ……」
「同族嫌悪って奴ですか」
「うん。みんな楽しそうに写メ取っててさ」
 その話は聞いたことがあった。
 別にその時はどうとか思わなかったけど、嫌な感じはした気がする。
「私が通り魔に刺されても、きっとああいう風に笑われるのかな、って思っちゃった」
「はぁ……」
 僕は日本の将来が少し怖くなってきた。
 どうしてだろう。
 ぽーっとそう思っていたら、ぱちくりと瞬きをして、彼女は僕の顔を見据えた。
「あ、まだ名前言ってませんでしたよね。私、前田 母子(まえだ もこ)って言います」
「あ、僕田山って言います」
 言いながら、何とも無しに頭を下げあってる内に、恐怖感ちょっとずつ薄れてきた。
 
 人間っていいな。
 
 素直にそう思ったのだった。
 

 

前へ  戻る  次へ