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電車の中で強制おしくらまんじゅうに参加していたので、すでに体力はかなり減っている。それでも僕は唯一心の許せるマイルーム――――「コーポ清水台」を目指して歩いていた。すでに辺りは真っ暗で、空には月が良く映えていた。 マイルームに帰ったらまず何をしようか、とりあえずパソコンを起動して残してきた仕事を終わらせて本社に送らないといけないな、缶コーヒーはそれが終わってから飲むか、などと色々頭の中で考えを巡らせていたら、いつの間にかコーポ清水台に到着していた。この時、何故かこの建物だけが周囲と比べて真っ暗だったことに気づかなかったのだが、時すでに遅し。すでに事は起きていたのである。 僕は錆び付いた鉄製の階段をゆっくりと登り、目の前が真っ暗なのはきっと自分がたいそう疲れているからに違いないと思い込んでふらふらと直進する。マイルームは通路の突き当たり、つまり一番端っこに位置している。もれなく端でくるりと体を90度回転させてドアとご対面。ドアノブにゆっくりと手をかけて回す。もちろん開かない。あ、そうだそうだ、鍵を忘れていたとノートパソコンの入った鞄を漁って数分間。ようやく見つけたワルキューレちゃんキーホルダー付きの鍵を鍵穴に差し込んでぐるりと回す。 なぜにワルキューレちゃんキーホルダーが付いているのかについてここでは割愛する。後々分かることだろうから。 さて、ドアを開けて部屋の中に入ると果たして真っ暗である。僕はいつものように部屋に入ってすぐ右についているスイッチを押す。だが電気はつかない。もう一度オフにしてからオンにしてみるけれど、何度やってもつかなかった。電球でも切れたかなと思ってそのままテレビの置いてある部屋まで手探りで向かい、手探りでテレビ本体についている電源ボタンを押す。これもつかない。コンセントでも抜けているのかと、テレビの後ろから出ているしっぽを引っ張ってみるが、抵抗があるので抜けている訳ではなさそうだ。それならきっと、ブレーカーが落ちているのか? と洗面所にやって来て天井近くに付いているブレーカーをいじってみる。それからすぐ手前の洗面所の電気をつけようと試みたが、やっぱりつかない。僕の記憶が破綻していなければ、洗面所の電球は先週取り替えたばかりなので切れているということはありえない。再度ブレーカーをいじってみるが、音沙汰なし。困り果てた僕は疲れも相まって、しばらくその場に放心状態でセルフ放置プレイを興じていた。 ○ どれぐらい経ったのだろうか。 暗くてハッキリとは見えなかったものの、僕はふと哀れな自分の姿を夜目で捉えた。口から涎が垂れていたかもしれない。これがシステムエンジニアの成れの果てだと公開すれば、間違いなく誰もシステムエンジニアになりたいと思わなくなるだろう。つまりそれだけ酷いというわけ。 まずは目を覚まそうと目の前の洗面台で顔を洗う。季節はちょうど2月に入った頃だったので水道水は恐ろしく冷たかったが、僕にはちょうどいいくらいだ。両手で一思いにすくった水に顔を浸す。そのまま頭の中で10秒数えてから思い切り手を離して「はぁ〜」と深い溜息を一つ。まさしく至福の時だ。こんなことで幸せを感じられるのだからシステムエンジニアも捨てたものではないと自分を元気づけて、すっきりした顔で夜風に当たることも兼ねるべく缶コーヒーを近くの自販機に買いに行くことにした。近くに置いてあったタオルで軽く顔をふいてから、部屋を出てみる。予想通りに夜風が気持ちいい。ルンルン気分でドアを閉めてから隣の部屋のドアが目に入った。 「……この前大家に怒られて消されたのにまたやってるのか、こりないやつだなぁ」 日本の国旗がドアに大きくペイントされているこの部屋の住人は右翼でもなんでもないただの浪人生である。 何浪目なのかは聞いたことが無いが、去年ここに越してきたことから推測するに一浪目だと思われる。結構そりが合うので、お互いの部屋に招き招かれつつ談笑を交わす仲睦まじい関係だ。どうせなら彼の分の缶コーヒーも買ってきて今宵も話に花を咲かそうと決めて、僕はコーポ清水台を後にした。 ○ 一番近くにある自販機までは歩いて1分程しかかからない。だからコーポ清水台の住民はみんなここを利用するわけで、少なくともこの自販機は他の自販機よりも業績が相当優秀であることに間違いはなさそうだ。 「つまりエリート自販機くんなのだよ、君は」 目の前でいつもと変わらずチカチカと販売ボタンを祭りのように華やかに点滅させている自販機に向かって僕はそう言った。もちろん周りに人がいないことを確認してからだ。 どうも最近物に対して話しかけることが多くなった気がする。職業病だろうか――――百円玉を二つ入れて二回ボタンを押す。そういえば昔ネコ型ロボットが主人公の説話集で、石ころをまるで本物のペットのように扱うというエピソードが紹介されているのを読んだことがある。なんでも石ころと共に散歩に出かけて、石ころと共にお風呂に入り、石ころに熱心に話しかけることによって愛着が湧くそうだが僕はそんなに病んでない。今思えばあの説話集は現代日本の問題点を暗示していたのではないだろうか。そう勘ぐってしまう。少なくともそこに収録されていた多くの痛快な話は当時小学生だった僕を大いに楽しませたことに違いは無いのである。まぁいいや。 両手に一本ずつ缶コーヒーを持って、腕を大ぶりに振りながら帰途につく。別に心が小学生に退行してしまったわけではなく、ただ缶コーヒーをしっかりと振る手間を省いているだけである。勘違いしないように。と、そこでなんともなしに視線を泳がせていた僕の視界に思いがけないものが入ってきた。 「…………なんだぁ、あれ」 僕から見て左側には住み慣れたコーポ清水台。右側には電柱が一本立っている。その二つの間にはコーポ清水台に電力を供給する送電線が通っている――――はずだった。 「あれ、切れてる」 電力を供給するはずの送電線は切れてだらんとだらしなく垂れていた。 僕は何度か目をこぶしでこすって自分の目を疑った。けれども疑いようが無い。近くの街灯で照らされているそれは、確かに切れた送電線だった。 「…………」 僕はそんな役目を果たすことなく力尽きた送電線をぼうっとしばらく見つめていた。見つめながら、先程の自分の部屋の状態とこの目の前の状態とを結びつける。 そうか、ここで切れていたから僕の部屋の電気はつかなかったのか。なんだ当たり前じゃないか、ここで切れているんだもの。 そう思って 「ははは……」 乾いた笑い声で笑ってからよくよく考えてみる。 「……ってことは無線LANもパソコンも全部おしゃかってことか」 おしゃか、という表現は的を得ていない。正確には無用の長物と化した、と言うべきだろうが、今の僕にはそんな論旨的思考のための脳みその空白は残されていなかった。だから理性ではなく感性に従って――――ようするにこの目の前の事態が引き起こす種々の問題が頭を駆け巡って――――僕は走っていた。すぐ目の前のコーポ清水台に向かって、ただひたすらに走ったのである。 |